日本語は私たちにとって最も身近な言葉です。それだけについ何でも知っている気になり、裏付けのない感覚的な態度で向き合いがちです。例えば「ことばの乱れ」。代表格はいわゆる「ら抜き言葉」でしょう。ある人は「ら抜きは正しい日本語ではない」と非難し、またある人は「言葉は生きているから変わるのは当然」と擁護します。しかし、どちらの態度も日本語学的態度とはいえません。なぜなら、どちらも事実を正確にとらえていないからです。
例えば、「昨夜は流れ星がたくさん見られた」は「たくさん見れた」と「ら抜き」になります。しかし、同じ「見られた」でも「いたずらしている所を見られた」は「見れた」とは絶対になりません。「ことばの乱れ」とされるものは実は言語変化の初期段階という場合があり、「ら抜き」もそのひとつと考えられます。この言語変化の譬えとしてなら、「ことばは生きている」という表現は確かに絶妙です。しかし、ただ「生きている」というだけでは思考停止にすぎず、上記のような事実をとらえるチャンスを失ってしまいます。「言葉は生きている」というなら、もう一歩進め、「〈どのように〉生きているのか」と問い、事実を正確に把握するべきです。そして次に、上の「流れ星」の例は「見れた」となるのに「いたずら」の例ではならないのは何故か。その理由を考える必要があります。日本語学とは、このように事実を正確に把握、記述し、何故そうなっているのかを説明する学問なのです。
そして、記述と説明をするということは同時に、今まで見過ごしていた事実や、その事実を支えている法則、体系を「発見」することでもあります。この「発見」は、「言葉の乱れ」のような、いわば「変わり種」にのみ見出せるわけではありません。ごく日常的な、ありふれた言葉の中にもたくさん潜んでいます。日本語の「生き様」を見つめることで、そのような「発見」に立ち会えるところに、日本語学を学ぶ醍醐味があるのです。(三ッ井 正孝)
「新潟大学人文学部 2015 Campus Guide」より