2016年3月21日月曜日

とこからどこまでが「作品」なのか

(国語国文の研究紹介)

一般に江戸時代と言われる、日本の近世期の文学について、調べたり考えたりしている筆者が、ここでは近世文学の特徴と、それに基づく「作品の読み方」について少し紹介します。

近世の場合、読者人口が爆発的に広がり、作者の階層も厚くなり、さらに版元(出版業者)が間に入って、文学の「市場」が形成されました。主に写本で伝わってきた古典文学も版本で流布し、新作は「新版」として定期的に出版されるようになります。さらに口承で伝統を継承する方法や、その場に集まった人々が作者/読者両方の役割を務める「座の文芸」的あり方など、当時の創作現場には独特の空気がありました。こうした時代状況によって、「作者の問題」一つとっても考慮しなくてはならないことが多々生じます。たとえば芭蕉七部集の一つ『猿蓑』集に拠って芭蕉の俳諧理念をいきなり語ることは出来ません。編集者の凡兆と去来がどれだけ芭蕉の意図を理解し、編集に反映させているかを見るべきだからです。また西鶴の浮世草子は、「西鶴工房」と言うべき複数の覆面作者達によって大半が書かれたという説があり、「西鶴」という名のブランドとして作者像を捉えるべきかも知れません。近松門左衛門は、浄瑠璃脚本を浄瑠璃太夫の語りの特徴に合わせて書き、歌舞伎の場合は役者が得意芸を発揮できるよう配慮しています。職業的戯作者の曲亭馬琴は「自分は書きたいことではなく、読者が読みたがるものを書いてきた」と言明しています。そこには当然読者の欲求だけではなく、版元の販売戦略も絡んでくるでしょう。つまり、創作の現場や市場の実態にまで視野を広げなければ、作品が生まれた意味も理解できないわけで、作品読解には文学周辺の知識が必要になります。

もちろん、作品内部だけに視野を限って、そこから現代人のくみ取れる価値を引き出してくるという読み方もありえます。古典文学も結局、現代人にとってどういう意味があるかで価値づけられるという立場からはそういう考え方も導出されます。しかし、上に挙げた創作の原理や実態は、意外に現代の同人誌や二次創作、ネット文学のあり方に通じるところがあるのです。過去の文学を取り巻いていた状況を知ることが、未来に向けて文学の可能性を開いてくれるかも知れません。また、作品そのものを見るという時には、活字化されたものを読むのでは充分でありません。活字化によって、原本の伝えていた情報の何割かは消え去るからです。あらすじを読んだだけで作品を読んだとは言えないのと同じです。ようするに、作品が継承されてきた歴史を知り、出版された当時の本の姿を知った上で、当時の読書のあり方を追体験するような読み方をしなければ、作品を「読んだ」ことにならない、という考え方も成り立ちます。

私自身はほぼこの立場にあって、本文だけをコピー&ペーストしても「作品」を写したことにはならないと考えています。幸い近世文学の場合、情報と化していない「もの」としての原本に触れる機会が持ちやすく、こうした読み方が実践できます。さらにこうした読み方から、われわれは何者なのか、つまり日本文化とはどんなものかを考えることが初めて可能になるとも思われるのです。それゆえ講義の場では、学生の皆さんに向けて「読む」ための知識と技術をできるかぎり発信するよう努めております。(廣部 俊也) 

「新潟大学人文学部 2014 Campus Guide」より